キューバと俺 

キューバの虜になった大学生。

「ありがとう」を考える。


 “La diferencia en el significado entre mi "Gracias" y sus "gracias"
—-

 

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  日本にいた時ありがとうについて考えることなど全くなかった。キューバに来てからそれについて考えるようになった。自分の使う“ありがとう”がここキューバではあってない気がするからだ。

 

  これに関しては日本とキューバや外国のような対比的な問題ではなく人によって捉え方は変わってくると思う。みんなは“ありがとう”についてどう考えるかいろんな人の意見を聞いてみたい。 
 

  友達が夜ご飯をあなたのために作ってくれました。
この状況で友達に「晩飯つくってくれてありがとう。」と言うのは私にとって当たり前である。
逆の立場で、何も言わずにその友達が帰ったとしたらあなたはどう思うだろうか。私はあまりいい思いはしない。 


  友達との距離感の違いで変わってくる問題かもしれないが、私の場合、知り合って間もない人でも幼稚園の頃からの親友でも上記の状況では“ありがとう”と言うだろう、しかも一回じゃなく何回も。 


  だがキューバに来てから、この感覚は普通ではないと思い知らされる。 


  ある日、アンゴラ人の友達の家に行ったとき、まだ昼ご飯を済ませてない私のためにかなり本格的な昼ご飯を作ってくれた。いつもの感覚で「ありがとう」を何回か言った。すると彼は少し不思議な顔をして「なんでそんなにありがとうなんか言うんだ。お前は俺の友達だろ。」

 

  別の日、キューバ人の友達の家に遊びに行ったとき、ビールとかなりの量のおつまみを出してくれたにも関わらず、何も持ってきてなかったので“ありがとう”を通り越して申し訳ない気分にさえなった。

 

 その友達の友達はありがとうの言葉はないどころか次から次へとビールを飲みまくっていた。気を遣うなんて言葉は友情関係において存在しないかのようだった。

 


 また別の日、友達と野球をした後近くの売店でジュースを二本買った。一本を友達にあげた。彼は何も言わずに飲み干した。大した値段でもないのに“ありがとう”がないことに引っかかる自分がいた。無意識に“ありがとう”を待っていた。はい、ただのけちなだけですね、これは(笑)。

 

 彼らと接する中で、自分と彼らの“ありがとう”には認識の違いがあると気づいた。

 


 どんなに些細なことでさえ他者が自分のためにしてくれたと感じた際、「~してもらう」という言葉でそれを言い表せられる場合、私は“ありがとう”を自動的に付与してきた。

 

 
 一方、「~してもらう」をそのまま直訳できる言葉がない英語やスペイン語にはそもそも「~してもらう」という感覚がないのかなと思う。

 

  よっぽどのことでない限りお互いに感謝し感謝される行為という認識がない。とくに友達関係においては感謝し感謝される行為の定義は狭い。「友達なんだからして当たり前だろ」みたいな感じで。 
 

 

 ただ、どっちの認識が正しいとかそうじゃないという問題じゃないが、彼らの認識に触れて自分の“ありがとう”に違和感を覚えることがあった。

 

 “ありがとう”という時もちろん感謝はしているのだが、他の感情も存在する気がしたからだ。 


  そんな時アンゴラ人友達が言った言葉でその違和感の正体が分かった。 
「俺の国でももちろん“ありがとう”は言うが、言葉自体はそんなに重要じゃない。行動がすべてだからだ。好きな女の子に何かをあげた時、その子が涙を流して喜んでくれたら、ありがとうの言葉がなくても感謝の気持ちは十分に感じられる。もっと言えば自分が好きで何かをしてあげているのに感謝されなくて気分が悪くなるのは筋違いだろ。」

 

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 自分が使っていた “ありがとう”に含まれる意味合いには行動で感謝の気持ちを表現する自信がない時の言い逃れが含まれていた。
 

 さらにありがとうを言ってもらえないことに対して引っかかる気持ちに関しては、見返りがあっての親切であるからだと気づかされた。 


 こうやって書いていると自分の器の小ささやケチさが露呈してきて書くのをやめたくなったのでここで終わるが、自分を見つめるにはいい時間になった。

 最後に

“ありがとう”に嘘はない。だがその気持ちを口だけで終わらせるのではなく行動でも“ありがとう”を言えるような人間になろう。
と自分を慰めて締めときます。  

 

ということで、今回もうまくまとめれず終わってしまいごめんちゃいです。